東京大学 海洋アライアンス 日本財団

TOPICS on the Ocean

海の雑学

透明人間はいないけれど……

1897年にH・G・ウェルズが書いた「透明人間」では、透明になった科学者がロンドン郊外で村人たちを混乱と恐怖に陥れた。ある事件で命を落とした男は、姿の見えない幽霊となって、恋人の窮地を救う。こちらは1990年の米国映画「ゴースト」だ。人が透明になって幸せか不幸かは別にして、透明な体は、むかしからわたしたちのイマジネーションを刺激してきた。

わたしたちは透明になれないが、この愛すべき地球の仲間には、もうほとんど透明という生き物がいる。慶應義塾大学の研究グループがホヤの卵や幼生を調べたところ、透明度が約90%にもなる種類がいたのだという。

透明に生きるべきかどうかという大問題

わたしたちは陸の生き物なので透明な体は想像しにくいが、海には、多くの透明な生き物がいる。クラゲやイカ。あの天使がはばたくような姿がかわいい寒い海のクリオネ。卵からかえったばかりのウナギの幼生「レプトセファルス」も透き通っている。透明度は、高いものだと90%くらいになるといわれている。

体が透明であることには、生きていくうえで有利な面と不利な面があると考えられている。透明だと敵に捕食されにくいし、相手に近づくときは気づかれにくい。一方で、海面に近くて太陽光が届くようなところだと、有害な紫外線から細胞を守ってくれる色素が欠乏していることになる。わたしたちの皮膚はメラニン色素が紫外線を吸収してくれるが、透明だと、そういうしくみが期待できない。生き物にとって、透明か否かは、こうした環境のもとで進化する生存戦略の真剣勝負なのだ。

慶應義塾大学修士課程の紫藤拓巳さんらの研究グループは、神奈川県の横浜や三崎、宮城県の女川、新潟県の佐渡に生息する21種類のホヤから採取された199個の卵について、その透明度を調べた。

ホヤは世界中の海に分布している。食用のマボヤは三陸地方などの海底の岩に固着し、その形から「海のパイナップル」ともいわれていて、とてもおいしい。もちろん好き嫌いはあるだろうが、殻を割いて取り出した黄色い身は海の香りをたっぷりまとっていて、もちろん日本酒にあうし、意外にもビールのつまみとして最高だ。ホヤの甘みが引き立つ。東京のスーパーでは、むかし仙台で働いていたころ食べた、あの鮮度抜群でしっかりした歯ごたえのホヤにお目にかかれないのが残念だ。

食用のホヤ

食べるとおいしい食用のホヤ。

透明度90%の生き物は、まさに「透明」

なにかの物体が透明なのは、その表面で光の反射が少なく、物体の中を光が通過するとき、光が吸収されたり四方八方に散ったりしない場合。つまり、こちらからあてた光が、そのまま向こうに通っていくときだ。その透明さの度合いは、こちらからの「入射光」の何%が「透過光」として向こうに通ったかで示すことができる。

このとき考える必要があるのは、どのような種類の光に対する透明度なのかという点だ。赤い光について透明だから、緑の光についても透明だとはかぎらない。

わたしたちが白っぽく感じる太陽の光は、いわゆる「虹の七色」が混ざった結果として白に見えている。この光をある物体にあてたとき、透過光が赤ならば、それは、この物体が緑の光を吸収したからだ。赤い光に対しては透明だが、緑の光に対しては透明ではないことになる。そのため、生体の透明度を示す際、これまでは「何色の光については何%」という色別の方法がおもに用いられてきた。

紫藤さんらは、ハイパースペクトルカメラという機器を使って、生き物の体の「生体透明度」を簡便に測定できる新たな手法を開発した。人間の目で感じられるさまざまな色の透明度を平均してあるので、わたしたちが実際に見た印象と近い数値が得られる。

この手法で199個、21種類のホヤの卵を調べたところ、その生体透明度は10.4~88.7%と高低の幅が広かった。高い透明度の卵にはナツメボヤ科のホヤが多かった。ホヤにはこのほかユウレイボヤ科、マボヤ科などがあるが、どの卵も高い透明度なのはナツメボヤ科の仲間だけ。ある生き物の透明度を網羅的に測定し、こうして「科」のようなグループごとに比較できるデータをそろえたのは、これが初めてなのだという。

ヨーロッパザラボヤの成体

卵が最高の透明度だったヨーロッパザラボヤの成体。(以下の写真は、いずれも堀田さん提供)

生体透明度が最高の88.7%だったヨーロッパザラボヤは、卵だけでなく、生まれたばかりの幼生も、ほとんどおなじ透明度だった。顕微鏡で観察すると、黒い目だけがポツンと確認できるが、体そのものは見えないそうだ。

ヨーロッパザラボヤの幼生の写真

おたまじゃくしのような形をしたヨーロッパザラボヤの幼生の写真。あまりにも透明で、どこにいるのかわからない。

ヨーロッパザラボヤの幼生の写真

輪郭を際立たせる特殊な撮り方をすると、ヨーロッパザラボヤの幼生は、たしかにいた。体長は1センチメートルくらい。

ナツメボヤ科の卵だけ透明度がとくに高い点について、研究グループの堀田耕司・慶應義塾大学准教授は「系統発生的制約」の可能性を指摘する。ホヤが進化していくとき、ナツメボヤ科では、体が透明になる方向に進化しやすいというバイアスがかかっているのではないかというのだ。

こうした科ごとの違いがわかって、新たな不思議も生まれた。堀田さんによると、ザラボヤの卵は水面にのぼってくる。水面では太陽の紫外線が強いので、紫外線から卵を守る色素が欠けた透明な状態は不利なはずだ。それなのに、なぜこんなに透明に進化したのか。

これまでに確認された生き物の透明度としてはトップクラスのヨーロッパザラボヤだが、三陸や青森の海では嫌われ者だ。養殖しているホタテガイの殻にびっしり取りついてしまい、駆除対象の生き物だという。その一方で、卵や幼生がなぜこんなにも透明なのかを調べていけば、そのしくみをまねた人工的な低反射フィルムなどの材料を開発するヒントが得られるかもしれない。海には不思議な生き物がたくさんいる。

文責:サイエンスライター・東京大学特任教授 保坂直紀

海の雑学トップに戻る