東京大学 海洋アライアンス 日本財団

TOPICS on the Ocean

海の雑学

北極海に冷たい水を供給する海の「湧き水」をみつけた

南極は大陸だが、北極は海だ。北極海には夏でも氷が浮いていて、氷が海面を覆う面積は、年により増減しながらも、長期的にはどんどん小さくなってきている。その年でいちばん海氷面積が小さくなるのは、夏の盛りを過ぎた9月だ。国立極地研究所などによると、今年は9月13日だった。そのときの面積は355万平方キロメートル。日本の国土面積のわずか9倍半だ。人工衛星による観測が本格的に始まった1979年以降で、2012年に次ぐ小ささだという。30~40年まえは700万平方キロメートル前後だったので、いまは半減していることになる。

国立極地研究所などは今年の特徴として、1~6月にロシア上空の北側の海で気温が高かったうえに7月上旬には晴天が多く、8~9月には大陸上の暖かい空気を北極に運ぶ風の流れが優勢になったことを指摘している。

ベーリング海の位置

今回のお話の舞台。ベーリング海は、太平洋のうちアリューシャン列島より北側の海域。ベーリング海の北端はベーリング海峡で北極海とつながっている。その手前にあるセントローレンス島とシベリア大陸にはさまれたアナディル海峡が今回の主人公。

北極海の海氷が長期的に減り続ける原因として挙げられているのは地球温暖化だ。地球温暖化では極域の昇温幅が大きい。夏の北極海では2030年代後半には氷がなくなる可能性があるとも指摘されている。

さきほどの「今年の特徴」では、大気の暖かさが指摘されていた。もうひとつ、氷の多少におおきく影響する要因がある。それは海水温だ。氷は海面に浮いているから、その水温は氷の消長をおおきく左右する。太陽の熱で海面が温められるだけではない。温かい海水、冷たい海水がどこかから流れ込んでくれば、それが氷の消長に直結する。

だが、こうした北極域の海水の流れについては、じゅうぶんにわかっているとはいえない。米国に近い海域では観測データがオープンだが、ロシア寄りではデータが少ない。これがわかってくれば、地球温暖化の進行にともなう海氷の減少についても、そのしくみが、よりはっきりしてくるはずだ。

ロシア寄りの海は夏でも冷たい

東京大学大気海洋研究所の川口悠介助教らの研究グループは、夏場の北極海に冷たい海水を送りこむ海域を、ロシアの沖でみつけた。その場所は、まもなくベーリング海峡から北極海に海水が出ていく太平洋北端のベーリング海。そのシベリア寄りの海域で、海底から冷たい水が海面に湧き上がっている現象をみつけ、その理由を解明した。夏の北極海を冷やすしくみの発見である。

夏場にこの海域を人工衛星から観測すると、セントローレンス島より北の西寄り海域、つまりシベリアに近い側に海面水温の低い海が広がっている。反対の米アラスカに近い東側だと10度以上もあるのに対し、ここの海面水温は0~2度にもなる冷たさだ。シベリア大陸とセントローレンス島にはさまれたアナディル海峡のあたりから、その北側に冷水の海域が広がっている。これが北極海に流れ込み、おそらく海氷の消長に影響を与えている。

人工衛星から観測した海面水温

人工衛星から観測した海面水温。アナディル海峡から北に、冷たい海域(冷水湧昇帯)が広がっている。米国側の海は温かい。(東京大学大気海洋研究所などのプレスリリースより)

川口さんらは2017年8月、シベリア大陸とセントローレンス島にはさまれたアナディル海峡を南から北に横断し、さらにベーリング海峡から北極海に至る船で観測を実施した。

ひとつ特徴的だったのは、アナディル海峡のすぐ南の海域だ。海面の水温は10度以上あったが、水深10~20メートルのあたりで急に冷たくなり、それより深いところでは1~2度だった。まるで水の上に油の層が浮くように、はっきりと2層に分かれていた。海の水温は、浅いところが温かく、深くなると冷たくなっていくのがふつうだが、これほどはっきりと分かれているのは珍しいという。

この成因について、川口さんはつぎのように説明する。シベリア大陸の沿岸では、冬に吹く冷たい風が海氷をつくっては沖に押し出す。氷は海の塩分を取り込まず海水に残すので、高塩分で、しかも氷ができるギリギリまで冷やされた重い水が、沈んで底にたまる。だから、夏場になって海面が温まると、「表層近くは温かい水、深いところは冬につくられたとても冷たい水」という2層構造が顕著になる。

もうひとつわかった特徴は、海水が南から北にアナディル海峡を抜けると、あんなにはっきりしていた2層構造が完全に崩れ、そこから北のベーリング海峡に至る海域では、数度の冷たい水が、表層から海底までの全体に行きわたっていることだ。深いところだけでなく表層まで冷たくなった低温の海水が北上し、ベーリング海峡から北極海に出ていくのだ。

2018年8月にロシア極東海洋気象学研究所の観測船「マルタノフスキー号」で実施したアナディル海峡の観測でも、水深20メートルくらいを境に温水と冷水が2層に分かれていて、それがたしかに海峡を横切っている様子が確認できた。

アナディル海峡の水深は50メートルくらい。ここを通るまでは、海水は「表層近くは温かい水、深いところは冷たい水」という2層構造になっていた。それが、南から北へ海峡を通過したとたんに、表層も冷たく上下にあまり温度差のない海域が出現する。海峡でなにかが起きている。残る問題は、深く冷たい水が浮上するしくみの解明だ。

冷たい海水がロシア側に湧き上がっていた

船による海洋観測は、実際に通った場所のデータしか得られない。データは線状で、広い海域で起きている出来事はよくわからない。こういうときに使われるのが、コンピューターによるシミュレーションだ。海域全体の海水の動きを数式を解いて再現し、観測で得られているデータが再現結果と一致していれば、そのシミュレーションは信用できる。つまり、海域全体で起きていることを、この結果をもとに推定できる。

シミュレーションの結果、面白いことがわかった。流れがアナディル海峡を北向きに横切るとき、海底近くの冷たい水が海底に沿って西に動き、シベリアの岸近くで海面に浮上していた。深い冷たい水が、まるで「湧き水」のように、海面まで上昇していたのだ。

川口さんによると、これは、動く海水と海底のあいだで発生する摩擦に地球が自転している効果が加わって生ずる「エクマン流」という特殊な流れだ。その証拠に、海水と海底の摩擦をゼロと仮定してシミュレーションすると、このエクマン流は発生せず、深い冷たい水が浮上することもなかった。

冬季に冷たい水がつくられ、それが北上してアナディル海峡を通過するとき、海中の「湧き水」となってシベリア沿岸に現れ、海域一帯を覆う。それがベーリング海峡から北極海に流れ込む。夏場でもきわめて冷たいこの水は、北極海の氷がどんどん解けることを抑えるはずだ。大西洋と北極海をつなぐ間口は広いが、太平洋と北極海がつながなる窓はベーリング海峡だけだ。氷が減少する夏場にこの海域で海水温がどう推移するかは、北極海の氷の行く末を占う際に重要な意味をもつ。

北極海で夏季に氷が減少し続ける原因について、気温の上昇傾向に加え、これからは「シベリア大陸から海に向けて吹く冬季の冷たい風→冷たい海水のでき具合→北上して海峡を越える際の冷たい『湧き水』の広がり具合」という海側の事情も考えられるようになった。

北極の海といっても、夏は白夜で気温は上がるし、海面の水温も高くなる。北極海にも海面水温が10度前後に達する海域があり、そこでは実際に氷が解けている。いまは、冷たい「湧き水」がベーリング海峡から北極海に供給されている。だが、もし、なんらかの原因でこのしくみが不調になれば、これはきちんと研究してみなければはっきりしないが、夏の解氷がいっきに進む可能性も否定できない。

北極海の氷が減ると、海面は太陽の熱をよく吸収するので、温まった海水で氷がさらに解け、すると海面が広がって海水がますます温まり……。北極海では、このようにして氷の減少が暴走してしまうことも心配されている。米国側に比べてロシア側の海のデータが少ない現状を「ロシアの海はブラックボックス」と表現する研究者もいる。北極海は地球環境の重要なプレーヤーだ。こうした研究で、その姿がすこしずつでもあきらかになっていくことを望みたい。

※東京大学大気海洋研究所などによるプレスリリースはこちらです。

文責:サイエンスライター・東京大学特任教授 保坂直紀

海の雑学トップに戻る