RESEARCHERS Interview
社会の側から水産の可能性を探ります
東京大学大学院農学生命科学研究科 八木信行教授
――八木さんのご専門は「水産政策」ということですが、これはどういう研究をする分野なのですか。社会の側から水産を研究するということですか。
「これは、水産学や経済学、そこにかかわる人間社会の条件などを考える境界領域の学問分野です。魚などを研究の対象にする水産学には、生物学や化学といったいわゆる理系の研究者が多い。水産政策を専攻する研究者は、ほとんどいないのが現状です。」
――具体的には、どのような研究なのでしょか。
「たとえば、魚や貝などの水産物の価格はどのようにして決まるのかという問題。ここにも、仲買人たちが集まって競りをする人間社会がでてきます。生物多様性や海の環境保全などを考えるときには、わたしたちにとって海の価値とは何かという哲学的な話も関係してきます。」
理屈どおりにいかないところに現実がある
――社会が絡むとなると、なかなか理屈どおりにはいかないような気がします。
「経済学では「ものの価格は需要と供給のバランスで決まる」というようなシンプルな理論をしばしば目指します。ですが、水産物は、現実には浜によって値段がばらばらです。工業製品のように品質が一定のものに対してならまだしも、おなじ種類の魚でも脂の乗りが違ったりすれば、価格は違ってきます。水産物の値段の決まり方は複雑です。シンプルな理論を作るために切り落とされてしまった部分に現実があり、そこに興味をもっています。」
八木さんらのグループが行ったマトウダイの研究がある。マトウダイは体長30センチメートルくらいで、日本の沿岸にも広く分布している。刺身のほか、加熱すると甘みがでるので、塩焼きや煮つけ、バター焼きなどにして食べる。あまり多くはとれない魚だ。
三重県外湾漁業協同組合に所属する漁港でマトウダイの価格を調べたところ、漁獲量が多いほど価格が上がることがわかった。これは、供給量が増えるほど価格は下がるという経済学の基本に反しているようにみえる。
三重県・奈屋浦漁港に揚がったマトウダイ(八木さん提供)
日本の漁業ではふつう、とってきた魚介類を港に揚げ、そこの卸売市場に集まってきた仲買人が「競り」を行う。ここで決まる値段を「浜値」という。浜値は「この魚ならいくら」とあらかじめ決まっているわけではなく、漁獲量のほか、競りの仕方のような人間集団の活動にも左右される。
競りという独特の人間活動が絡むと、値段の決まり方は一般の工業製品とは違ってくる。いまその魚を競り落としたい仲買人がたくさんいれば、競争が激しくなって浜値は上がる。だが、もし競りにでる量があまりに少ないと、ほんの何匹かを運んで売る手間やコストを嫌って競りに参加する仲買人が減り、浜値が安くなる可能性がある。魚の浜値は単純に漁獲量では決まらず、仲買人たちがそれを競り落とそうとするかどうかという、きわめて社会的な要因が関係してくる。
――経済学の基本原理では説明できない現象が卸売市場で見られているわけですね。
「競りにだされるある魚の量が少ないときは、あまりに少なくて売りようがないと仲買人が考えると安くなるし、お客さんにどうしてもその魚がほしいと頼まれていれば、数の少ないその貴重な魚を手に入れようとして、高い値で入札するかもしれません。値が安定しないのです。」
「値が安定しない魚は扱いにくいので、それを避けるためには、いくつかの市場を統合してある程度の量をつねに確保すればよいのではないか。そう考えるのは自然なことですが、それが本当かどうかを実証する研究は、これまでありませんでした。」
水産物の浜値には、競りの仕方も多分に影響を与えるようだ。八木さんらのグループは、三重県南東部の沿岸でおこなわれているイセエビ漁で、競りのどのような要素が浜値に影響を与えるかを具体的に調べた。イセエビは生まれた場所からあまり移動せず、しかも、イセエビが揚がる22か所の漁港は近接していて、イセエビの品質にはおおきな違いはないと考えられる。漁港にある卸売市場は三重外湾漁業協同組合が運営していて、そこでは、市場ごとに特徴のある競りが行われている。ここを調査することで、競りの仕方がどのようにイセエビの価格に影響するのかがわかりそうだ。
調査の結果、浜値が高めになるのは、(1)入札額や落札額が仲買人たちに公開されている(2)集まる仲買人の数が多い(3)1回の競りごとのイセエビの取引量が多い――といった条件が満たされるときだとわかった。
いま競りにでているイセエビに対する他の仲買人の評価が推定できれば、悪いイセエビを自分だけ高値で買ってしまうリスクが減りそうだという心理がはたらき、価格は高めになる。仲買人が多ければ、高値をつける仲買人がその場にいる確率が増す。1回の競りで買い付けたイセエビを運ぶための費用は、量が多くても少なくてもあまり変わらないので、どうせならたくさん仕入れたほうがコストが安くつく。したがって、量が多いと買おうという意欲が増して価格も高めになる。イセエビの価格には、このように、いかにも人間的な要素が反映される。
海はたんなる食料の供給源ではない
――わたしたち日本人は、むかしから魚をよく食べてきました。海に対する思いにはなにか特徴があるのでしょうか。
「海は魚という食料を得る場所です。そういう海の価値を日本人はよく認識しています。ですが、海の環境を守ろうといった行動を誘うのは、「食料を得る場所だから守ろう」という客観的な認識よりも、むしろ「海はレクリエーションや土地の伝統的な生活と結びついている」という文化的な価値感です。これは、日本に住む814人に対して2013年に行ったオンライン調査でわかったことです。個人の内面にある思いと海が結びつき、それが行動をうながすということです。国際学会でこの結果を発表すると、「日本人にとって海は食料の供給源なのに、文化的な価値のほうが行動に直結しやすい」という意外な結果に驚いた外国の研究者も多かったようです。」
「ですが、これは不思議なことではないようにも思います。子どもが生まれたとき、その成長を願って植えたリンゴの木になった実と、スーパーで買ってきたリンゴとでは、物体としてはおなじリンゴでも価値が違います。そこにダムを造るからと土地の人を追い出して代わりの土地を提供しても、先祖代々の土地と見知らぬ土地は等価とはいえないでしょう。人間の内面と周囲の環境は深く結びついてます。」
――そのようにしてわたしたちのなかに芽生えた海への思いが、実際に行動へつながるかというと、そこにはまだ隔たりがあるような気がします。
「そのときに大切なのは、それぞれの思いを行動につなぐための組織です。たとえば海洋環境の保全を考えたとき、有効に機能していると考えられるしくみのひとつが漁業権です。基本的には地元の漁師さんにだけ漁を認めるのが漁業権で、そうして地元の生活に根づいた海を受け継いできたからこそ、将来もその環境を守っていけるよう、漁師さんたちが漁業協同組合のような組織をつくり、自主的なルールのもとに行動してきたわけです。」
漁業法が2018年に改正され、定置網を使った漁業と養殖業に民間企業が参入しやすくなった。そのとき、地元とつながりがない企業に数年間といった短期間の漁業権を与えると、そのあいだにできるかぎり利益を上げることに専心し、将来の環境保全にまで気が回らなくなる恐れがある懸念が指摘されている。一方で、みんなのものであるはずの海の利用を地元の漁業者だけに限定することの排他性も、ときに批判の対象になる。世界の流れに沿って、漁獲可能な資源量を科学的に推定し、とり過ぎる違反者を国や自治体が取り締まるのか。あるいは地元の自主的なルールを大切にするのか。あるいは、両方のよいところを残せるのか。難しいところだ。
異分野の経験がいまでも生きている
――八木さんは、大学を卒業してから20年くらい水産庁にお勤めだったんですよね。
「在職期間の半分は捕鯨をめぐる交渉、半分は世界貿易機関に関係する仕事をしてきました。国連機関で働いている人を見ると、みなさんアタマが切れるなあっていう感じでした。」
――水産庁時代に留学もなさってますよね。
「アメリカのペンシルバニア大学で経営学修士(MBA)をとってきました。水産庁の職員がファイナンスを勉強するために留学するのは畑違いで珍しかったのですが、「いずれ途上国との協力も考えたいので、そのために必要だ」と説明して納得してもらいました。水産庁だけでは得られない異分野の人たちとも知り合うことができ、その人脈がいまでも生きています。」
――カンボジアの地域経済を活性化して、2019年にはカンボジアから勲章を贈られたそうですが。
「トンレサップ湖に面した村で、アメリカの非営利団体と協力して、地元の人たちに低利でお金を貸し付ける組織を作りました。カンボジアは金利が高く、家族の病気などでいちどお金を借りてしまうと、その返済のために土地を手放すことになる例も珍しくありません。そこで、低利でお金を貸し、利息は村で公益のために使うというしくみを作りました。密漁を取り締まるための船を買ったり、農機具をしまっておく小屋を建てたりしています。こうして地域を活性化していったのです。その活動に対して「カンボジア王国友好勲章」をいただきました。」
――大学は楽しいですか。
「水産庁時代は、なにかを説明する対象は、年配の政治家というのがふつうでした。大学では、自分の知識を次の世代を支える若者たちに伝えることができる。役所だと、文章を書いても、それは政府の一員として匿名で書くのですが、いまは個人の名前で社会のお役に立てます。大学という場は、とてもやりがいのあるところです。」
文責・構成:東京大学海洋アライアンス 保坂直紀