知って楽しい海の話知って楽しい海の話

小さな大海

日本海
夏の日本海に朝日が昇る。強い季節風で荒れ狂う冬の日本海とは違い、夏はカーフェリーでの旅も快適だ。
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かつて2年ほど富山県に住んでいたことがある。海は近くてきれいだし、名産の白エビは、かき揚げにして食うとうまい。仰ぎ見ればそびえたつ立山。スキーに温泉。おいしい米と日本酒。とても楽しい思いをした。

楽しかったが、その気候には驚いた。たとえば雷。太平洋側でばかり暮らしてきたので、雷といえば夏だと思っていた。ところが、富山では雷は冬の風物詩。しかも、ゴロゴロと鳴るのではなく、一発だけドーンとくる。初めて聞いたときは、近くで爆発事故でもあったのではないかと緊張したのを覚えている。

関東だと冬は乾燥した晴天が続くのだが、富山では、いつも雲が重くたれこめていた。もちろんこれは、北西から吹く冬の季節風が、日本海をわたってくるときにたっぷりと水蒸気を含んでくるからだ。これが雪になって降るおかげで、富山は豊かできれいな水に恵まれている。それでつくる日本酒もおいしい、のかもしれない。日本海のそばで暮らし、海が人々の生活をつくっていることを実感した。今回は、その日本海のお話です。

日本海は小さいけれど一人前

日本海には、不思議なニックネームがついている。「小さな大海」「ミニ大洋」「ミニオーシャン」などと呼ばれ方はいろいろあるが、意味するところはおなじ。ユーラシア大陸と日本列島にはさまれた小さな海なのに、大きな太平洋や大西洋のように一人前の特徴をそなえている。そういう意味だ。

なにがどう一人前なのか。それを、これからお話ししていこう。

日本海

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日本海は、まるで洗面器に水を満たしたような海だ。大陸と日本列島にはさまれているうえに、海水の入り口と出口が極端に浅くて狭い。日本海が外海とつながっているのは4か所。南から順に、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡だ。そのいずれもが浅い。せいぜい百数十メートル。日本海の水深は、もっとも深いところで約3800メートル(富士山の高さとおなじだ!)もあるので、ほとんど出入り口のない器に塩水がたまっているようなものなのだ。

こういう海は「死の海」になる可能性がある。海面の近くにはプランクトンや魚などの生き物がたくさんいる。生き物が死ぬと沈んでいき、体をつくっていたたんぱく質はバクテリアに分解される。そのとき酸素が使われる。だから、もし海が、たんに器にたまった塩水だったなら、深層の酸素はやがてなくなる。たとえば黒海がそうだ。水深200メートルより深いところには、酸素がほとんどない。酸素のないところでたんぱく質が分解されると、生き物にとって毒性の高い硫化水素も発生する。

ところが、日本海はそうはならない。海面近くから海底にいたるまで、酸素濃度は高いままだ。日本列島をはさんだ太平洋と比べ、まあ水深にもよるのですが、最大で数倍、海底近くでも3割あまり多い豊富な酸素を含んでいる。なぜか。それは、自然が用意してくれた巧妙な仕組みが日本海にはあるからだ。

冬になると北西から日本海側に吹きつける季節風。身も縮むこの冷たい風は、大陸から日本海を越えてやってくる。この風で海面が冷やされ、水が重くなって沈んでいく。海面近くの水は、酸素を多く含んでいる。大気に接しているし、植物プランクトンが太陽の光で光合成して酸素をつくるからだ。だから、海面の水が沈み込めば、海の深い部分にも酸素がいきわたる。どんどん沈み込んで酸素濃度があがった深層の海水は、太平洋とまじわることなく孤立しているので、酸素濃度は高いまま保たれる。

北大西洋でも、海面の水は北部で冷やされて沈み込み、インド洋や太平洋にまでいたる。これが、深層循環とよばれる地球規模の壮大な海流だ。日本海は、面積にして太平洋の0.6%しかない小さな海なのに、この深層海流とおなじように沈み込みがおきる。

しかも、日本海には南端の対馬海峡から対馬暖流が流れ込み、北半分には冷たい海流もある。深層への沈み込みに加えて、このような表層の海流ももっている。海の仕組みとしては一人前だ。小さくても立派な海洋。それで、小さな大洋、ミニオーシャンとよばれているのだ。

不吉な予兆

日本海

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日本海は、小さいけれども太平洋や大西洋などとおなじ仕組みをもっている。となると、小さな日本海でおきたことは、やがて太平洋などの大きな海でもおきる。その日本海で、いま不吉な現象が確認されている。

不吉な現象その一は、約2500メートルより深い海水に溶けている酸素が、ここ80年くらい減りつづけていること。その二は、深海の水温が上昇してきていることだ。東京大学大気海洋研究所の蒲生俊敬教授によると、酸素は30年あたり10%という速いペースで減っているのだという。

深海の酸素は、海面近くの海水が沈み込むことで供給される。その沈み込みは、海面の水が冷やされて重くなるためにおきる。だから、ふつうの日本海なら、冷たくて酸素の多い水が深層にあるはずなのだ。

だが、これまでの観測によると、深海の酸素は減り、水温は上昇している。なにかに気づかないだろうか。そう、海面が十分に冷えなくなり、沈み込みが弱まって酸素が深海まで行きわたらなくなっているのではないか。そう考えると、不吉な現象その一もその二も説明がつく。

かつての沈み込みと最近の沈み込みとは、どう違っているのだろうか。それを、いま知りたい。むかしの水の動きを、いま知りたいのだ。

これって、難しいですよね。むかしの生き物なら、化石として残っているかもしれないので、それを探せばよい。化石の出てきた地層から、どれくらいむかしに生きていたかもわかる。だが、相手は海水だ。いまもあちこち動きまわっている水だ。観測船で深海から水を採取したとして、それがいつ沈み込んだ水なのかを、どうすれば知ることができるのか。

国立環境研究所の荒巻能史(たかふみ)・主任研究員はフロンに注目した。分解されにくい人工の化学物質で、かつては冷蔵庫を冷やしたり、スプレー缶に入れて圧力を高めたりする材料として多量に使われた。これが大気中に捨てられて増え始めたのは1950年代。それ以前には、なかった。海水を採ってきて溶けているフロンの濃度を測れば、水の古さについて手がかりが得られる。

このように、水の流れを追跡するのに役立つ化学成分のことを、「化学トレーサー」という。「トレース」というのは「跡を追う」という意味。トレースするための道具がトレーサーだ。

さて、海水中のフロン濃度を測るのだが、ただ濃度を測っただけでは困ったことがおきる。おなじ時期に海面に溶け込んだフロンでも、薄まれば濃度は低くなり、薄まりにくければ濃度は高いままだ。つまり、いつ大気から海に溶けたのか、言い換えると、海中から採ってきた水が海面にあったのはいつなのかが、濃度だけでは判断できない。

そこで、ひと手間かけるわけです。2種類のフロンを使う。かりにフロンA、フロンBとしましょう。たとえば、いまは大気中にフロンAと同量あるフロンBが、50年まえにはAの3倍あったとする。採取してきた海水中のAとBが同量だったら「最近の水だな」と思えばよいし、BがAの3倍だったら50年まえに沈み込んだ水ということになる。フロンAもBも、薄まるときはおなじように薄まるので、その比率は変わらないのだ。

この原理を使って荒巻さんが3種類のフロンを組みあわせて調べたところ、表層からの海水の沈み込みは、まだ完全に止まったわけではないが、すくなくとも1960年代からきわめて弱くなっていることがわかった。沈み込みの勢いが弱く、表層の水が海底近くまで届いていないのだ。

では、なぜ沈み込みが弱まったのか。原因として最有力候補に挙げられているのは、地球温暖化だ。

地球温暖化の影響か

まだ確証はないが、状況証拠はある。冬に表層の海水が沈み込む海域に近いとみられているロシアのウラジオストックでは、ここ100年近く冬の気温があがってきている。冬の日本海は、冷え方があまくなってきているようなのだ。寒さがとても厳しかった2000年から2001年にかけての冬だけは、沈み込んだ表層の水が海底に届いて酸素濃度があがったという観測データもある。

「日本海は『先触れの海』なのです。小さいだけに、環境変化の影響が早く現れる」。蒲生さんは、そう説明する。日本海の水が沈み、浮きあがって一巡するには100〜300年かかる。地球規模の深層循環は数千年かけて世界を巡るので、それに比べるとわずか10分の1。荒巻さんも「地球規模の海の異変が、まるでDVDの早送り再生のように日本海に現れる可能性がある」という。

日本海はいま酸欠に近づきつつあり、水温も高くなってきた。深層へいたる水の循環が変わってきている。前回、お話ししたように、地球規模の深層循環が変化すれば、地球の気候はがらりと変わってしまう可能性がある。日本海は、やがて太平洋、大西洋でおきる異変を、そして地球の気候が直面する危機を、身をもって警告しているのかもしれない。それに気づいてやるのが、科学の力なのだと思う。

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