知って楽しい海の話知って楽しい海の話

月と深層海流

月と深層海流
地上から撮影した満月。ウサギはいるか......。(国立天文台提供)
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夜空に浮かぶ月を見て、そこにウサギなんているはずはないのに、思わずそのウサギを想像してしまっていた幼なかった日々。あのころのたくましい想像力が、いまはなつかしい。

米国のアポロ11号で人類が初めて月に降り立ち、月面から映像を送ってきたのは1969年の7月。小学4年の夏休みに入ったばかりだった。日本が2007年に打ち上げた月周回衛星「かぐや」も、鮮明な月面の写真を送ってきた。荒涼としたその風景は、すでにもうおなじみのものだ。映像のインパクトは強い。このようなリアルな月の姿を突きつけられてしまうと、たとえ小さな子にでも、「月にはウサギがいるんだよ」とは、もうどうもいいにくい。

月にウサギという楽しい空想は砕けてしまったが、月のおかげでわたしたちは暮らしていけるという話はどうだろう。遠く38万キロ・メートルも離れた月のおかげで、わたしたちはこうして暮らしていける。これもまた、ちょっとロマンに満ちた話ではないか。こちらのほうは空想の世界ではなく、科学の世界のお話です。

地球をめぐる深層の海流

海には海流がある。唐突なようですが、今回は月と海流についてのお話なのです。

海流といえば、日本の南岸を流れる世界最強の「黒潮」。このタイプの海流は、地球規模で吹く風によって引きおこされ、海面に近い浅い部分を流れている。風が原因となっていることから「風成循環」とよばれたり、海面近くの流れだから「表層循環」とよばれたりする。

「循環」というのは、地球規模でめぐる海水の流れのことだ。赤道の北側には西向きに流れる北赤道海流があり、それが北に向きを変えて黒潮につながる。その黒潮も、房総半島のあたりで広い海原に出ていき、太平洋をめぐってまた戻ってくる。海流は、こうして循環している。その循環の部分ごとに、北赤道海流とか黒潮とか、いわゆる海流の名前がついている。

月と深層海流
観測船から海に投入される乱流計(日比谷さん提供)
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さて、海流にはもうひとつのタイプがある。深層海流だ。黒潮などの表層の海流が風で生まれるのに対し、深層海流は海水の重さの違いで生まれる。海水は、塩分が濃いほど、そして水温が低いほど重い。水面近くにこのような重い水があれば、その水は沈んでいく。実際に沈み込むのは、北大西洋の北部や南極周辺の海域。水深数千メートルに達して世界をめぐる。

沈み込んだこの流れは、北太平洋やインド洋で上昇して海面近くに出てくる。それが大西洋に流れて、また沈み込む。ひとめぐりするのにかかる時間は1000年から2000年くらい。めぐる距離からみても、それにかかる時間からみても、まさに壮大な流れなのだ。

このタイプの海流を、流れを生むもとになる水温や塩分に注目して「熱塩循環」とよんだり、深い流れだから「深層循環」とよんだりする。

深層循環という言葉で注意が必要なのは、この超大規模な海水の流れは、海の深い深い深層だけを流れているのではない点だ。さきほどお話ししたように、大西洋の浅い部分をこの循環は北向きに流れている。この流れが北極圏に近づくと冷やされて重くなって沈み込み、こんどは向きを南に変えて深層を進む。ここからは、やがてまた海面近くに浮上するまで深層の旅となる。深層循環というのは、深層だけを流れる海流ではなく、表層から深層に達する海全体の大規模な流れだ。

深層循環が気候の決め手

深層循環には、地球の気候をおだやかにする働きがある。

地球に届く太陽のエネルギーは、赤道などの低緯度で多く、北極や南極に近い高緯度では少ない。だから、ほうっておくと、赤道付近は猛烈に暑く、高緯度は非常に寒くなる。

ここで深層循環だ。北大西洋で海面近くを北上する深層循環は、赤道近くからやってくるので温かい。黒潮のように集中した強い流れではないが、なにせ規模が大きいので、運んでくる熱も多い。この熱で高緯度の大気を暖める。つまり、低緯度から熱を奪い、それを高緯度に運ぶ。こうして寒暖の差がならされる。深層循環は、現在のような温和な地球の気候をつくりだすのに重要な働きをしている。

このことを端的に物語る論文を、米国地球流体力学研究所グループが1988年に発表している。太陽から受けるエネルギーがおなじでも、深層循環が弱いと北半球の気温がぐっと下がるというコンピューター計算の結果だ。深層循環の強弱が地球の気候をがらりと変えてしまうのだ。

最後の氷期が終わって地球が温暖化していたいまから1万1000年ほどまえ、北半球が突然、寒冷化したことがある。ヤンガードリアス期とよばれている。このとき深層循環が弱まっていたとみられている。

深層循環というものが存在し、それが地球の気候をおおきく左右する。どうも、それは確からしい。しかし、深層循環について、じつは大疑問が残されている。なにが深層循環を動かしているのか。これが、現代の科学でもまだはっきりしないのだ。

沈み込むときは、とくに問題はない。海面近くの流れが北大西洋を北上していけば、冷やされて重くなる。だから沈み込む。

問題は浮上するときだ。浮き上がるのだから、深層を流れていた水が軽くならないといけない。塩分が薄まるとは考えにくいので、なにかからエネルギーをもらって温かくなっているはずだ。そのエネルギー源はなにか。浮上のためのエネルギーが足りないとすれば、それは困ったことだ。深層循環は、理屈のうえでは存在できないことになってしまう。

月が深層循環を生む

月と深層海流

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そこで登場するのが、月だ。やっと月が出てきました。月がつくる潮の満ち引き、つまり「潮汐(ちょうせき)」が、深層循環にエネルギーを与えているという考え方だ。

地球と月のあいだには、引力が働いている。月の引力は海にも働く。だから、月に近い側の海は盛りあがる。月が地球のまわりを回っているということは、地球が月のまわりを回っているということでもあるので、海の水には遠心力が働いて、月と反対側の海も盛りあがっている。このようにして海面がラグビーボールのような形になるので、海岸では1日に1回か2回、潮の満ち干がおきる。これが「潮汐」だ(※)。

潮汐は、海岸だけでなく海の水全体を揺らす。このとき、水が海底の山にあたって流れに乱れが生まれる。ちょうど、陸で山に風があたると風下に乱気流ができるのとおなじだ。このような乱れた流れを「乱流」という。

乱流には、いろいろなものを混ぜ合わせる効果がある。コーヒーに砂糖を入れてほうっておくと、砂糖は底に沈んで、なかなか全体が甘くならない。ところが、スプーンでかき混ぜて乱れた流れ、つまり乱流をつくると、すぐに全体が甘くなる。乱流が、底の甘さをすばやく全体に運んだのだ。

海で乱流が運ぶ、深層循環にとって大切なもの。それは「熱」だ。海水は、水深の浅いところが温かく、深くなると冷たい。水は温かいほうが軽いので、このままでは上下に混ざらない。そこで乱流だ。乱流は海をかき混ぜ、海の深いところを流れる深層循環に、浅いところから熱を運んでくる。すると、深い部分の水温があがる。水温があがれば、水は軽くなって浮上する。

月と深層海流

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東京大学海洋アライアンスの丹羽淑博・特任准教授が潮汐による海の乱流を算出し、そのデータを使って東京大学大気海洋研究所の岡顕(あきら)・准教授が深層循環を計算した2013年の論文がある。

たとえば、わたしたちに身近な太平洋で乱流ができやすいのは西側の半分。海底に山谷が多いからだ。潮汐の流れが海底の山にぶつかると、海洋内部に特殊な波が生まれ、それが遠くに伝わって乱流をつくりだす。論文によると、潮汐の流れが海底の山にぶつかって直接できる乱流のほかに、海洋内部の波によるこの乱流を計算に入れると、観測でわかっている深層循環の姿にかなり似てくるというのだ。

観測とコンピューター計算の両面から乱流の研究をしている東京大学大学院理学系研究科の日比谷紀之教授によると、それでもまだ、深層循環の駆動力は足りないのだという。深層循環のために必要な駆動力は、60ワットの電球に換算すると300億個分。そのうち半分あまりは潮汐力でまかなえるが、残りがよくわからない。日比谷さんは、「月がなければ深層循環が生まれないことは確かだ。南極周辺の風も関係していると思うが、まだ詳細ははっきりしない」と説明する。

月によって地球の海がゆすられ、そのときに発生する乱流が、海の浅い部分の熱を深海に運び込んで深層海流を温める。その結果、海流は浮上し、世界をめぐる深層循環ができあがる。だから地球の気候はおだやかで、わたしたちもこのように暮らしていける。「風が吹けばおけ屋がもうかる」のような話だが、大筋はそんなシナリオだというところまでは追いつめた。もうちょっとだ。

そういえば、素粒子ニュートリノを使った宇宙観測で2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊・東京大学特別栄誉教授は、「ミクロな素粒子と広大な宇宙は密接に結びついている」とつねづね話している。海もおなじだ。数センチ・メートルの細かい無数の乱流と、2000年の時を経て流れる地球規模の壮大な深層循環。このふたつが結びつき、月が地球の気候をつくりだす。なんだか月に感謝したい気持ちになりませんか。

(※)ほんとうは太陽からの引力も関係しているが、月の引力の半分にもならないので、ここの説明では省略した。

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